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 (左がpoche, 右が鈴木訳)


春休みを楽しんでいます

フランス文学20世紀最高の小説家、ともいわれる
マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」
A la recherche du temps perdu
は、とにかく長いことで知られています
先日読了!(とはいえ、フランス語では3分の1くらい、あとは訳です)

(前置きが長いので、内容について知りたい方は、とばして点線のあとをお読みください、ただし、ネタバレあり)

フランスの世界文学全集、「プレイアード版」、と言ってますが
édition de la Pléiade (1冊が辞書のよう)で5冊かな
日本語の訳は、はじめは井上究一郎で「スワン家のほうへ」
どうもよみづらかった・・・
(現在はほかに3種類の訳=鈴木訳、吉川訳、高遠訳、あとの2つは刊行中)

それから、フランスにいた時に、「スワンの恋」
これは独立した1編の小説として読めます(ちょうどシュレンドルフの映画が封切られた)

ぜひ、読もう!と思ったのは、週刊誌、Nouvel Obs の文芸欄に
La Prisonnière (囚われの女)の冒頭が載っていて、
それがもう、本当にすばらしかった!(15年くらい前かな)

でも進まず、2010年に、Sophie と会ったときに
Normandieの別荘に行き、ひょっとしたら
「花咲く乙女たちの影に」の舞台、カブールに行くかも
(小説の中では、バルベックという名前になっています)
というので、読んでいなければ一生の恥?と思い
(ただ、わたしは19世紀の詩が専門です)
この巻を鈴木道彦訳で読みました。当時は文庫ででていたのはこれだけ
(でも実際には時間もなく、カブールには行かず.。ついでに書きますと、ヒット映画、
「最強の二人」の最後にでてくる、海がカブールだそう!昼食をしようというのは
プルーストも滞在し小説にも出てくる、由緒ある、グランド ホテルということです)

その時、パリの古本屋で、プレイアードを1冊は買おう!と思いましたが
ちょうど、全巻揃えようという Monsieur がいましたので
わたしは遠慮して、適当に最後の3巻が載っているものを買いました


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 (これがわたしが最後の3章を読んだ本、ベタな表紙です)


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  (わたしのもっているプレイアード版のひとつ、ランボー、Rimbaud です)

その後、気にはなっていたのですが、なかなか進まず
鈴木道彦氏の訳で、アルベルチーヌのあたりを読み、フランス語でも読み
で、吉川さんが新しい訳をお出しで、これでともかくはじめから読み直し
「ゲルマントのほう」と「ソドムとゴモラ」の2つの難所をなんとか超えました。
(とにかく社交界のつまらないおしゃべりが延々とつづく、読破しようとする人にたちはだかる壁、とか吉川さんまで言ってます!)

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(左が高遠訳、右がだいたいを読んだ、吉川訳、いづれも完結していません)

それで最後の La fugitive (逃げ去る女)   Le temps retrouvé (見出された時)
をフランス語で読みました。

ともかく、前編が長い上に、文章がなが~く、場所によっては
フランス人もどれが主語かわからない、というプルースト
ながくても順に読んでいけばすっと入ってくるところもありますが
(花咲く乙女たち・・・はそうです。これは当時でも評価され、ゴンクール賞を受賞)
なかなか厄介です
(そのため、フランスよりも、ドイツ、アメリカ、日本に読者が多いらしい)

ともかく読みました。(2月10日ごろ) 不十分な点もあると思いますが・・・

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で、ここから内容
(ネタバレありますので、これから読もうという方はご注意)

プルーストの自伝的小説で、主人公、わたし、の子供時代の思い出から
恋人アルベルチーヌとの出会い(これが花咲く乙女たち・・・です)
社交界の人々、ゲルマント公爵夫人のサロン、その甥、ロベールとの友情
初恋の相手、ジルベルト、そしてアルベルチーヌとの恋?の行方・・・

まー、とても一言では言えませんが
だいたい、プルーストは、「無意識の記憶」、で有名です
人には、幼いころの、それこそ、有名な、マドレーヌをお茶に浸して食べたとき、
のような、幸福な思い出を知らないうちに心の中に秘めています
それが、あるきっかけによって、突然よみがえる、それは
この上ない幸福をもたらして、時間の流れ、死、にただひとつ
対抗することができるものです
でも、それにめぐり合えるかどうか、それは偶然によっている
そしてそれを文学に描くことが、小説家の使命であり
さまざまな記憶のつながりを時間の中で描く

と、まあこういうようなことだと思います

わたしが興味があるのは、「自我」の問題です
自我の変貌  この自分は、たえず変化して、ひとつのものではない
それはまあ、そうなんですが

だいたいが、「わたし」はアルベルチーヌを好きなのか、そうでないのか
読者もよくわからない もう飽きた、別れる、と決めたその次の瞬間
彼女をパリのアパルトマンに囲うことを決断し、彼女に言ったのは
別れの言葉ではなく、いっしょに住もうときりだす・・・
一緒にいれば他の恋人ができることはない
まるで嫉妬 jalousie のほうが amour 愛よりも大きなファクターのよう
失ったらはじめて好き、それは誰しも少しはある、恋愛の感情でしょうが
あまりに激しい・・・

アルベルチーヌは、どこまでもミステリアスで、どうも同性愛の女性で
相手が大勢いそうである、しかしそれもはっきりしたことはわからない
他人から聞いたり(見張らせたり)、彼女の親しくしている女友達が
同性愛者らしいということで暗示される・・・

彼女を追い出すようなかたちで別れて、しかし事故で不慮の死をとげる
もう、二度と会うことのないアルベルチーヌを恋しく、後悔の念ばかり
そういったときに彼女の性向を知らされたりする・・・

ロベール(サン・ルー侯爵)にしても、大変真摯な人物のようですが
(なんと!)ジルベルトと結婚しても、モレルという美貌の青年と恋仲で
まったく破廉恥な人物のように描かれます(モレルはシャルリュスとも親しかった)
それが、最後はまた部下思いの軍人として戦死する
(第一次大戦中)

そんななかで、ずっと変わらず、破天荒、ハレンチ、貴族の同性愛者である
シャルリュス男爵は、ハレンチではあるが、一家言を持ち
一貫した人物像が描かれています  なかなかおもしろい

ソドムとゴモラとは、聖書の記述に由来する同性愛の事を指しますが
シャルリュスとアルベルチーヌたちがその中心として描かれています
(ちなみにプルースト自身も同性愛者です)

読もうという方は、
「スワンの恋」、「花咲く乙女たち・・・」はそれだけでも楽しめます

それももちろん良いですが、「囚われの女」そして
「逃げ去る女」の最後のほう、ヴェニスに、お母さんと滞在する
ここがもうすばらしいです!
プルーストの長い迷路のような文章が、ヴェニスの迷路の小路と
あいまって、読むものを陶酔に誘います
(私自身、ヴェニスには3回ほど行きましたが)
小説の章の終わり方としても絶品です(これは読んで下さい)

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プルーストは、最初と最後ははじめから決めていて書き始めた
また、第1次大戦のため、「花咲く乙女・・・」の後は出版が困難となり
間をどんどんながくして、また最後の章にも
対戦中のパリの記述(ものすごいです)を付け加えたりしてさらに長くなった

彼は、9歳のときに発症した喘息に一生悩まされ
家庭は裕福でしたので、仕事につくことはなく、社交界の生活と
恋人との生活(ソドムとゴモラの最後のところに、アルベルチーヌとの
生活のモデルとして、海岸を当時まだめずらしかった自動車で乗り回すなど描かれています。ここは新鮮で面白い)のほかは、執筆活動をしたのみです

最後は体調も悪い中、お手伝いのセレスティーヌに助けられ
(この人が身の回りの世話だけでなく、まるで秘書のように、原稿も管理したとか)
際限もない書き直しの紙が、原稿にどんどん足されていったそうですが
小説の終わりでも、自分の作品は、大聖堂のようではないが
「衣」のようで、それは継ぎ足してぼろぼろのようかもしれないが(ここはわたしの言葉です)古くから家にいた下女のフランソワーズ(高齢だが、まだ生きていることに
なっている)ならば、上等な毛皮ほどムシがつく、というだろう、と
その努力に言及しているように思えます(泣けます)

わたしも喘息なので、ステロイドの吸入などのなかった時代に
どんなに大変だったろうかと、それも思ったり

どうもまとまりませんが、読み終わって、光文社の高遠訳を1冊買ってきました
これは読みやすいです。(同僚の英語の先生お勧め)
それで最終章のはじめに、ジルベルトと、タンソンヴィルを散歩する
そのことにちょっと触れられていて
ああ、プルーストははじめからプロットは全部できていたのだ、と実感し
さらに感動しました。

高遠氏の訳は、関係代名詞でさかのぼるところは
何度も先行詞をだして、もどって読める訳、という感じになっているようです
まだ、原文と照らし合わせていないのですが・・・

およそまとまりのない感想ですが、今日はこれで
(この項、後日書き直すかも、です)


*追記(1時間ほど後に)
すでに追記ですが、読後感について

プルーストを読むのを、登山に例えると
それは富士山のような山ではなく、つまり最高峰に到達して下界を見下ろす、
というようではなく
南仏に、サントヴィクトワール山という、セザンヌの絵で有名な山がありますーーー
セザンヌの絵は、ほぼ、エクサン・プロヴァンスから見たものを描いているので
とんがった三角のお山のように見えます
しかし、私は良く知らないで、東のほうに行ってしまって
どんどん東に行ったため、
尾根の長く続く、それは堂々たる山でした

もしも、サントヴィクトワール山に登ったなら、おそらく
長い尾根歩きの合間、ときおり見える素晴らしい光景に心を奪われ
しかしその後、また延々と尾根歩きが続き新たな見晴らし、その繰り返し、かなと
プルーストを読むのも、そんなものかな、とふと思いました

その時の写真は全部スライドで撮影して、いまは倉庫に眠っているかなと
思います・・・スライドは、プリントも普通はしないので、手元になくなってますね・・・
 
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